昭和48年01月30日 井上勝之乃霊神20年祭



  (途中から)
 の方達がこうやってうち揃うて、今日のお祭りを受けられる御霊様に対して、真心を込められたという事は、まぁ信心の上から言うても、大変有り難いことだと思うです。いや信心がなからなければ、こういうお祭りは仕えられないと、私は思うです。今日は御霊様の前で、一番私は感動させて頂いた事は、井上さんのまぁ手だと思うんです。あのそすと、片一方も手と手を握手されるところを頂いた。ところが片一方は皮の手袋を、はめておられるんですよね。
 それを手袋をぬいで、そしてこうやって握手をされる。あれはどんなに片一方が、赤裸々に持っていっとっても、片一方が手袋をはめておったんでは、通いませんよね。交流しませんよ。それをぬがれた方が、私は御霊様だと思うんです。今日はそういうなんか交流するものがね、今日のお祭りにはあった。私は本当にそれを感動しました。これは信心でなからなければ、とても出来ることじゃない。
 最近頂くご理解の中にも、夕べから今朝にかけて頂く御理解の中に頂いておりますように。仏教で成仏と言う事を言いますよね。是はあの親鸞聖人様が、お釈迦様のみ教えを、あのようないうならお態度で、真剣にその教えを解明された。そして本当の弥陀の本願と仰る。その弥陀の本願に基づいての布教をされた。その親鸞聖人様が、どんなに極悪の人間でも、どんなに罪深い人間でも、南無阿弥陀仏を唱えれば、助かるんだと言う事を言っておられるんです。私はそれがどうも、合点し得なかったんです。
 所が昨夜のお知らせを頂いて、沢山の人があの御霊達が、迷うてこう浮遊しておる状態を頂いてですね。助かりたいというので、こう浮遊しておる状態を頂いてね。それでも南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を唱えると言う事は、そういう気が起こったら、どんなに例えば罪深い者でも極悪人でも、助かる事が出来るんだと言う事である。助かると言う事じゃないんです。私はそれを昨日からもう本当に大発見の気持ちなんです。
 ですから、南無阿弥陀仏とすがる所からです、助かる事の出来れる。いわば本当の成仏が出来る事の道を導いて頂くという事であって、その導かれると言う事が尊いのです。だから南無阿弥陀仏と唱えたらその場で、極悪人が助かると言う事じゃない、助かる事が出来ると言う事。ほんなら私共がおかげ信心、ご利益信心だけではいけないと言われるけれども、金光様を唱えておる限りです。何時かそういう金光様と唱える、その所からね所謂成仏、仏教的に成仏というなら、是をどう言うでしょうかね。
 金光様の御信心は、現世で神様になる稽古だと言われるのですから。まぁ成神とでも申しましょうか。仏教は勿論、あの世で成仏すると言う事なんですけども、金光様の御信心はこの世で、わが心が神に向こうのが信心と仰るように、神様へ向こうて行く、いわゆる成神していくと言う事が、ですからどんなに例えば人間でも、金光様を唱える限り、何時かは神様がそういうチャンスというものを掴んで、お導き下さって、そして本当の成仏が、成神が出来るおかげを下さるんだという事。
 ですから今朝から又、そのことを申しましたんですから、皆この御神縁を頂いて、金光様を、どうであっても唱え続けなければいけない。途中で止めたら切れる。だから本当の信心が分かるという事が、神様の願いでしょうけれども。又どんな屑の子でも、助けずにはおかんという。いわゆる弥陀の本願であり、いうなら天地の親神様の願いというものがね、何時かは成就すると。
 そこで私は今朝、皆さんに申しましたように、何時かはというよりもね、今私がこの様に本当な事を皆さんに聞いて貰っておる時に、今姿勢を変えなさい。おかげの方から信心の方へ向きを変えてしまいなさいと。そこからいわゆるどういう風に変えるかと言うと、わが心が神に向こうていくと言う事が信心だと。ご利益を受けるという事が信心ではない。わが心が神に向こうていくと言う事が信心だと、向きを変えて痛い事は痛い、痒い事は痒いで願って、お願いをしておかげを受けていきゃよいのですから。
 只おかげの方だけ向きをおいとると、自分の思いようにならないと、神様も仏様もあるもんかと言った様な心すらが起きて来る。信心とはわが心が神に向かうと言う事だと言う事。そこでね問題になる事なんですけども。今朝私はお食事の時に、若先生それから高橋さん、久富さんと、四人でお食事させて貰いよった。そん時にまぁ色々話させて頂いたことなんですけれども。日本の国はと言うか、金光様の信心はどこまでも神ながらな道なんだと。例えばシナの偉い人が言うたという。
 修養の道とかそういうもんじゃないという事。例えばこういう事があろうがというて話したことです。「李下に冠」という諺がありますよね。又は瓜畑で靴のひもを結ぶなといったような事がある。ところが私は金光様の御信心はそうじゃないんです。例えそれが、李下であろうが、いわゆる梨畑の下であろうがです、冠が緩んだら結んぶのが神ながらなんだ。どんなに瓜畑の中におろうがです、靴のひもが緩んだら、結ぶのが神ながらだと。だから、金光様の御信心はね。
 所謂シナから伝わってきた、そういう道ではないんだと。道徳的に言うとそういう風に説かれておりますけれども。金光様の御信心はどこまでも、所謂赤裸々にあるがままに、なるがままにというのが、金光様の御信心なんだ。そういう意味でね、井上さんなんかは、実に赤裸々な生き方をされた方です。今日は神様へお届けをさせてもらう時にね、今朝、私この人と話した事を頂くんですよ。もう自由奔走に生きてきた。いうならそれは神ながらに生きてきた。
 例えばここで紐を結びよったら、梨を取りよるように思われちゃ出来んけん、と言った様な人間心を使わずに生きてきた、というわけなんです。所謂神ながらな生き方をしてきた。そこでですあるがままになるがままに生きてきた。だから信心とはそこからです、そのあるがままに、なるがままにというのを、今度は受けていくという信心が出来なければほんなこっちゃないという事です。生き方もそれならばです、生き方も神ながらなら。受けていく方も、起きてくる事態そのものを、神ながらに受けていく。
 今ここで言われるところの、成り行きを大事にするとか、御事柄として受けていくという、この生き方も出来なかったら、こりゃおかしな事になるわけです。そういう意味で、そういう道がつけられて来たですね。井上さんが、熱心に信心をされる事によって、そういう事が分かって来た。ここは神ならがで受けんならんのだ。御の字を付けて御事柄と受けんならんだと分かって来た。それは実際受けられない。
 受けられないけれども、受ける事が本当だと、それに近付こうとしておる事がね、今日の、御霊様のお祭りにも、大変な反映であったと言う事です。ですから今まで脱がれなかった、手袋をね、御霊様が脱がれた感じです。そして始めて交流したという感じです、今日のお祭りは。そういう意味で有り難い。そこで思うんですけれどもね。こういうお互いが、遺族の者が、金光様の信心を頂いていおるから、なるほど、まぁだ本当なものは出来ておらんにいたしましてもです。
 金光様を唱える術をです、御霊様も分かられた事になる。交流したわけです。今までは、例えば、浮遊しておった御霊であったかも知れない。迷うておった御霊であったかもしれない。けれども金光様を唱える事によってです、神様が成仏させて下さる道を開いて下さったという感じ。それにはいうならば生き仏様の方も、所謂私共の方もね、神ながらな生き方をすると同時に、神ながらな受け方が出来る所に。
 神に向かう者の姿というのがあるんです。神様が求め給う最近で言われる、苦しい事とか難儀な事というのは絶対修行なんだ。だからそれを修行と思うて受けよりますという様な、なま温いもんじゃない。絶対に修行なんだからそれを修行として受けていく。受けられない所でも、神ながらに受けていく。この受け方と神ながらな生き方こそが、一つになった時に、あるがままになるがままに所謂二、三日前に頂く。
 天の配剤というかね、素晴らしいタイミングの中に、そのタイミングは生まれてくるというのです。これは霊肉共に、私共も神様へ向こうていくなら、御霊様も又今日の御霊様のお祭りを境にです、いよいよ神に向こうていく信心の徳を受けていかれる事に違いはない。そういう一つのきっかけを作ったお祭りだったという風に、今日は頂きました。
   どうぞ。